パネルディスカッションメモ: 第18回日本国際金融システムフォーラム2017, 2/28, 金融市場とAI(人工知能)活用
私が書いた金融レジリエンス情報学レポート(一部)
国会質疑で大仁田厚がした定時制高校時代の話
平成十五年三月二十日(木曜日)
午前十時開会
それで、僕らは夜間ですから、一時間目終わったら、こうやって学食食べに行くんですよ。こうやって学食、カツどんだったんですけれども、そのとき。太一という友達とカツどん食べていたんですけれども、カツどん食べて帰ろうかと言ったら、ちょっと何というのかな、ぽちゃっとした、こういう場で言っていいのか分かりませんけれども、これは実際存在します。先生方が否定されようと存在するんですよ、いじめられるタイプというのが存在するんです。これは本当なんです。それで、その子が元気がないから、僕はどちらかというと、おい、元気出せよと肩をたたこうとしたら、ぱっと見たらカツどんの中身が唐辛子で真っ赤っ赤なんですよ。そうしたら、僕の友達の太一が、大仁田さん、これいじめられているんですよと言うんですよ。それで、もうそうなると僕と太一はかっとくるタイプですから、百人ぐらい御飯食べていたんですが、だれだ、こんなことをやったのはと言った途端に、隣の席で座って食べていた教師の、あの政経の西谷先生と化学の大沢先生が、大仁田やめろと、おれを止めるんですよ。ちょっと待ってください、おれの問題じゃなくて、これは先生、生徒の、教師の問題じゃなくておれら生徒の問題ですから、生徒に片付けさせてくださいと僕言ったんです。それで僕は言ったんですよ、だれだこんなことをやったのは。ちゃんと一人立ちました。やっぱり僕が怖かったんだろうと思いますけれども。それで、四人ぐらいがこうやって立ったんです。
ちょっと聞いてください。これは先生方、申し訳ありませんが、これ政治家になる前の話ですからね。僕は悪い言葉を使ってしまいました。これは政治家になる前の話ですからね、大臣、副大臣。僕はちょっと、これは正式に削除するかどうかは分かりませんが、僕はそのときの状況を正しく説明いたします。その子たちに僕は言いました。おい、面かせ、表に出ろ、今だったら多分、お面をおかしください、表に出てくださいと多分言うと思いますけれども。
いや、だけれども、考えてみてください。じゃ、何もしないで、その現状を何もしないで、じゃただ見ているだけで僕が大人のふりをして、あいつら、ああ倍ぐらい違うのにというんじゃなく、僕は何を感じたか。前例のように、僕は友達から、倍ぐらい離れた友達から問題を教えてもらったりいろんなことをしてパワーを逆に与えられました。じゃ、僕にできることは何なのか。おせっかいかもしれません。おせっかいかもしれません。だけれども、そのおせっかい、何かを行動すること、何か動くことによって何かが得られるんだよ、そこから何かが変わるんだよということを大人が教えていかなければ何も変わらないんじゃないでしょうか。僕が言いたいのは、僕が言いたいのは、子供に元気を出せよと言う前に、大人が元気がなければ子供が元気になるわけないじゃないですか。
僕は、教育というものは何だって、分かりません。多分、答えは多分出ないと思います。僕、大臣があと三十年ぐらいやっても多分出ないと思います、答えは。いや、だってそうです。かのアントニオ猪木が、かのアントニオ猪木が、多分江本先生は御存じだと思いますけれども、かのアントニオ猪木さんでさえ、多分、プロレスとは何ぞやと言われたとき、永遠に答えは出ない。教育とは何ぞやと言われたときに、多分遠山大臣でも、これだけ教育を長くやっていても、教育とは何ぞやと言われたときに多分答えは出ないと思うんです。だけれども、じゃ、僕らが、僕ら大人が何もせずに、何もしないでじゃなくて、やっぱり気付いたことに対してチャレンジする、何かをしようとする行動を見せなければ何も、何も変わっていかないんじゃないかなと。
副大臣に御質問なんですが、やっぱり僕は、大人自ら姿勢を正し、今のこの二十一世紀を生き抜くために、子供たちに、失敗してもいいじゃないか、何かをやろうよ、そしてまた、悪いことを見たら、何かそういうものを見たら自分から胸を張ってでも止めてみようよという姿勢というのを、やっぱり教育の中からどんどんどんどん掘り上げていかなきゃいけないと思うんですが、それについてどう思われますか。
黒沢さん登場の記事の日本語訳
哲学者ポパー: ソロスとタレブ 1/2
■ 金融と哲学 診断士協会のとある研究会で、「金融の実務界で重要な役割を果たしている哲学を紹介してくれ。」と頼まれたことがありました。ここでいう「哲学」は、「投資哲学」といったような特定分野の原理原則という意味ではなく、アリストテレスやソクラテスのようなガチの哲学です。そのような意味で哲学を意識している人はジョージ・ソロスしか知らなかったのでまずはソロスを紹介しました。しかし、いろいろ調べてみると、ソロスは科学哲学者であるカール・ポパーの影響を大きく受けており、また、「ブラック・スワン」の著者であるナシム・ニコラス・タレブもまた、ポパーの「白いカラス」の話を参考にしたと思われ、影響を受けていると思われます。そこでポパーについて紹介しようと思います。とても長くなるかもしれませんが、まずは、ポパーが何者で、ソロスとタレブにどんな影響を与えたか紹介しようと思います。 ■ ポパーは金融の人ではない ポパー(1909年-1994年)は科学哲学者とよばれる分野の学者です。彼自身は金融について何かやったことはありません。専門分野は簡単に言うと、「科学と似非科学の境界線はどのように決められるか」というものです。ここでいう「科学」とはかなり広い意味で用いられており、いわいる「自然科学」に限ったものではありません。これを説明するのは難しいのですが、誤解を恐れずに簡単に言うと、ある主張が頑健性が高く正しいかどうか十分議論されていることを「科学的」といい、とくに根拠なく主張をしていてその確からしさが揺らいでいるものを「似非科学」とよびます。例えば、政治では継続性が高く正しく行われ続ける政治の仕組みを科学的とよび、いずれ恐怖政治などの押さえ込みが必要になるような政体を似非科学的とみなします。 ■ ソロスとタレブ ポパーは金融と無縁だったにも関わらず、ポパー哲学が金融で引用されるようになったのは、金融工学がポパーの基準で言うと科学ではないからです。ポパーの考えはいずれ書くとして、まずはソロスとタレブがどんな風に引用したかを述べてみましょう。
■ ソロスと誤謬性
ポパーは科学の進歩とは、大胆な「推測」とそれを批判して否定しようとする「反駁」である、と考えています。誤っているかもしれない推測、つまり誤謬性を伴った推測が、反駁に耐えられるかどうか試されているという連続であり、確定した「正解」はないという考え方です。ソロスはこれを株価の実態価値に当てはめました。正しい実態価値があらかじめ知っている人がいる、などという前提はありえないと考えたのです。株価の動きは、恐らく実態価値はこれくらいだろうという「推測」と、いや本当にそうだろうかという「反駁」の繰り返しであり、誤謬性を常に伴ったものなのです。ですので、実態価値を知っている人がいて、常に鞘取りできるという、いわいる「市場効率仮説」は、絶対に成り立たないと考えました。
■ 自己強化プロセス
実態価値の推測、それが正しいかどうかに関わらず、実現することによって推測した人は自信をもちます。ある理由で上昇すると推測した人は、その理由とは全く関係ない理由で上昇したとしても実際に上昇すれば、正しかったと自信をもちます。そして、ますます上昇すると考えるかもしれません。このように、自己強化的に、正のフィードバックをともなって株価が一方向に動くことがあり、それを自己強化プロセスとソロスは説明します。これはポパーの誤謬性を応用したものですが、ポパーはそこまでは述べておらず、ソロスオリジナルのものです。
■ ブッシュ政権批判
ソロスはブッシュ政権が「開かれていない」として批判していた時期がありました。これもポパーの考える「推測と反駁を繰り返して正しい判断をしていく社会」いわいる「開かれた社会」の考えに基づいています。つまり、批判をうまく封じ込めれば、民主主義国家でも「開かれていない社会」を構築可能であるとソロスは主張したのです。
■ 自然科学と社会科学の違い
ソロスは自然科学と社会科学は同一に扱えないとして、それらを同一の基準で科学と似非科学に分けようとしたポパーを批判しています。これに関して私はソロスの主張は良く分からず、恐らくポパーの主張が正しいように思えます。というのもポパーは自然科学と社会科学の分類が自明でない状態を考えているので、ソロスの主張は若干的外れな感じがするからです。
哲学者ポパー: ソロスとタレブ 2/2
哲学者ポパー: 推測と反駁 1/2
■ 推測と反駁とは何か さて、ポパーの主張そのものを見てみましょう。私は、「推測と反駁 ~科学的知識の発展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/) という本を読みましたが、800ページ以上ある書籍でとても読むのが大変でした。しかも、事例のほとんどが物理学に関わることで、哲学書にも関わらず物理を勉強したことがない人には読書に相当な困難が伴います。ハッキリ言って読むことをお勧めしません。私は3ヶ月間以上の週末を使ってしまいました。ここではこの本に描かれていたポパーの哲学を、正確性は欠いてもなるべく分かりやすく書こうと思います。 ■ 法則は直感から生まれる 法則というものは、突然、直感から生まれます。初めは全ての法則は「推測」されたものです。ポパーは物理を例にあげていますので「法則」と書きますが、これは物理に限らず広く一般に当てはまるものですので、「発明」、「(経営などの)戦略」、「政策」、「アイデア」なり、いろんなものに当てはまります。が、以下「法則」と書きます。法則は必ずしも、観測を積上げたり過去の法則の延長線上にあったりするわけではありません。もちろんそれらは参照されていますが、ポパーは本質的には断絶のある、突然の推測であると考えています。 ■ 例:万有引力の法則 例えば、ニュートンが発見した万有引力の法則は、それまでの物理学の延長線上にありません。「力」という今までになかった架空の概念を、直感的に、持ち込むことにより、ニュートンの推測として万有引力の法則が唐突に出現しました。このような推測は、リンゴの落下をただひたすら見ている、「観測」しているだけでは出現せず、また、それまでの物理法則をいくら詳細に知っていても、推測なしには出現しません。このように全ての法則は、何の確信のない、推測でスタートします。
■ 反駁
ポパーの「推測と反駁」の続きです。何の確信もない推測で始まった法則は、その真偽をテストしなければなりません。間違っていることを立証しようとすることを反駁といいます。推測された法則は、数々の反駁に耐えて、初めて法則となるのです。
■ 価値のある推測
その法則が、あり得なさそうな、そしてシンプルにもかかわらず多くの現象を説明できるほうが、価値が高いです。反駁の可能性が高い、つまり一見、成立しおうにない法則(確証性が低いという)のほうが良いとされます。よい法則ほど反駁の手段が多く用意されています。その法則は多くの批判的テストにさらされます。その批判に耐えられたもののみ、法則として生き残るのです。ただ、反証されたとしても人類に別の形の知見を残します。なので、大胆な推測は歓迎されるべきで、そのかわり、批判的なテストを十分うけるべきです。
■ 確証性が高い推測は意味がない
確証性が高い推測は、反駁されにくく、成立する可能性が高いでしょう。ただそれは価値は低いです。「aはaである」のような反駁を試みる前から確からしい推測は、人類の進歩をもたらしません。一方で、大胆な推測は反駁されるまでは価値が高いです。ただ、たまたま運良く反駁に耐えている法則が、今のところ使える法則であり、永久に反駁されないことを保証しているわけではありません。また、テストがしづらかったりできない法則は価値が低いです。「ある場所である呪文を唱えると悪魔が出現する」という法則はほとんどテスト不能なので、ほとんど価値がありません。
例えば、あたりさわりのない主張は批判が少ない代わりに価値が低いです。大胆な主張は多くの批判を招きますが、批判に答えられれば価値の高いものになります。もっともいけないのが、大胆な主張をしておいて批判を受け付けないことです。その推測はテストされる真偽不明のものが、似非科学の知見があたかも正しいかのように蓄えられてしまいます。それは価値が低いどころか、害を及ぼします。