書籍「現代政治学」の感想3: 正しい結果を導き出せる仕組み

書籍「現代政治学」(http://www.amazon.co.jp/dp/4641123314/)を読んで感じたことを
取りとめもなく書いています。

読んでひとつ発見だったのが、
正しい結果を導き出せる仕組みを作ることが重要であるということである。
ダムは必要かどうかとか、外交でこういうべきだったとか
個別具体的にどっちがよかったかという議論は多い。

しかし、本当に重要なのは、正しい結果を導き出せる仕組みを作ることにある。
どういう話し合いをすれば正しい結果が出せるか、どういうメンバーがいいのか、
どういう検証ができるのか、思いつきでないしっかりとした意見は
どのような定量的な検証方法、コンピューターシミュレーションがあるのか。
つまり適当に考えるのではなく、どういうプロセスを踏めば正しいアウトプットが
出せるのかを良く考えることである。

もっと大きなことを言えば、どんな選挙制度なら政策を間違えないのか、
三権分立はあの構造でよいのか、ということをしっかり考えることは重要である。
どんなに判断力の優れた人間がリーダーになっても、
正しい結果を導き出せる仕組みがないとその組織はダメになっていくだろうし、
逆にたいした人材がいなくてもこの仕組みさえあれば正しい結果を導き出せる。
というよりも優れた判断力をもつというのが現実的でなく
多様なインプットをもって初めて良い実行ができる。
誰かが間違えたときに対処できるかどうか?ということが
仕組みづくりを考える上で良く問われることである。

行政が法律を守らなかったら?司法が判断ミスをしたら?
国会がおかしな法律を作ってしまったら?
すべてのケースにおいて何らかの対処方法があるように
国の仕組みは作られているのである。

そして小選挙区は2大政党制になりやすく、
比例代表は小政党が乱立しやすい。
どちらも長所短所があるのだが、日本はそれをうまく組み合わせた。
実に良くできた選挙制度だと、初めて気がついた。
衆議院参議院の使い分けがハッキリしないことは問題ではあるが)
この選挙制度だけをとっても膨大な学問領域になっている。

小さい政党がある程度存在した方が多様な意見を反映しやすい。
しかしながら余りにも小さい政党が多すぎると
毎回大連立政権となり判断が遅くなり政府運営が不安定になる。

実は多様なインプットが重要であるがそれを分析・演算する
政府の部分では余りにも多様だと不安定になる問題がある。
戦前の日本は大臣が総理大臣に逆らってもすぐには免職されない制度だった。
そのため議論が紛糾することが多く、悲惨な戦争を招いてしまった
要因のひとつだといわれている。
その反省を踏まえて戦後においては、
総理大臣がいつでも自由に大臣を罷免できるようにした。

いっけん、独裁制を強め、多様性を排除しているように見えるが、
総理大臣が選ばれるまでには数々の多様なインプットがあり、
そして法律を超える行動は立法する必要があるため国会での審議が必要であり、
だけれども法律の範囲内の早急にすべき活動や
政府の活動の全体的な整合性を取るためにどうしてもあまり合意されていない
ことをしなければいけない領域について、
そして、外交などは一貫性をもって対応できるという仕組みなのである。

もちろんこの仕組みはこれからも進化していくべきであるし、
よりよい仕組みづくりは多くの人たちによって研究されているであろう。
しかしながら、現在の仕組みはある程度は良くできていると私は感じた。

ちなみにこれまでこのような社会学とは無縁と思われていた
コンピューターシミュレーションの世界もこれらの領域に参入してきている。
(例えば、 http://www.amazon.co.jp/dp/432660221X/
シミュレーションも議論の材料にすれば、よりよい議論ができるのではないかと思う。

会社経営も同じようなことがいえる。
正しい判断を出すための話し合いの仕方、間違えた場合のけん制の仕方、
間違え続ける人が現れた場合の対処方法、そして、多様なインプットの仕方。
良い企業というのはこういうところがうまくいっているのだと思う。

書籍「現代政治学」の感想2: 競争によって初めて社会の効率性が上昇する

書籍「現代政治学」(http://www.amazon.co.jp/dp/4641123314/)を読んで感じたことを
取りとめもなく書いています。
今回は書籍に直接描いてあったことではないが、読んでて再度思い出し感じたことである。

人類の進化とは、さまざまな活動の効率性向上である。
例えば、川に水汲みに行っていたのが、井戸ができ水を得るのが楽になった。
さらに水道ができ蛇口をひねれば水が出るようになった。
生きていくうえで必要な「水を得る」という活動が効率的になり、
あまった時間で違うことを行い、さらに効率化を進めていく。
例えば、主婦がやっていた仕事がどんどん効率化されることにより
共働きがもっと可能になって行った。

効率化においては、競争が不可欠である。
例えば、家族ごとに魚を釣りに行かなくても魚が食べられるように効率化するとする。
それは漁を専門として網をつかって大量に魚を得て、
それを売るという商売である。
もし仮にここに競争がない場合はどうだろうか?
例えば、政府が漁をしている人たちの給与を一律に与えるとかである。
その場合は、漁師はサボるかもしれないし、もっと効率的に魚を取ろうとはしないかもしれない。
魚を食べる人が増えても、効率化かが進んでいなければ漁師を増やすしか漁獲量を増やせない。
漁師を増やすということはもっと他の仕事に就ける機会を減らすわけで、
役割分担の高度化は進まず、他分野の効率化を疎外する。

そもそもお金というものは社会の役にやくに立った人に渡され、
その人から便益を受けたものが支払う。これはお金が作成された理由である。
効率が悪い漁師にはお金が回ってこず、効率が良い漁師にお金が回ってくるのは、
そもそもお金が作成された目的からしてそうあるべきである。

当たり前じゃないかと思うかもしれないが、この基本原則は忘れられがちである。
例えば、高効率なスーパーが進出してきたときに、古い商店街が反対する場合がある。
もちろん競争は公正であるべきで、公正でない競争、これはつまり結局は社会の効率性を
あげず、人々に便益を与えない、または便益を奪うという結果になる競争はダメである。
例えば、原価割れの商品をいっぱい発売して競争相手を全て廃業に追い込んだ後、
不正に高い値段で商品を販売して、結局は人々が便益を得られないような競争である。
このような競争を防がなければならないとか、街の治安であるとか、
コミュニティーの劣化を防ぐとか、そいういう理由で商店街が反対するのはもちろん合理的である。
お金は役割分担を高度化するための手段であり目的ではない。
そのほうが社会の効率性は高く人々の便益が高いかもしれない。
しかしながら、単に儲からなくなるとか我々の生活が脅かされるとかいう理由だけで、
スーパーの参入に反対するのはおかしな話である。
これは人々の便益を向上させる競争である。
この競争を通じて人類は効率性を向上させし進化し、幸せになってきたのだ。

一方で、社会の役にっているのにお金が入ってこない場合もある。
これはいわいる集金の仕組みが確立されていない状態で、
少し前までのtwitterなどもそうであった。
ビジネスモデルが発明されていないといった方がよいだろう。
政府は強制的に税金をとって社会の役に立つことをやっている。
やっている内容は国民にチェックされ投票を通じて審判を下されるので、
合理的な仕組みであるし納得感もある。
政党や議員が選挙という競争を経てよりよい政府を構築するのであり、
やはり競争が効率的な社会作りに貢献しているのだ。
(もちろん、まだまだ完全ではなく、不満の残る場合もあるが)
一方で、政府がやるには適当ではないが、ビジネスモデルが発明されていない
役割というものも存在する。そういう役割を担っている人たちは
寄付を集めたりNPOとして活動したりする。

NPOも競争が必要である。すなわち、社会の役に立っていないNPO
なくなるべきであるし、役に立っているNPOにはその証としてお金が入ってくるべきである。
ビジネスモデルが確立されれば自然とこの状態になるのであるが、
そうなっていないからNPOなわけで、誰がどのようにお金を払うのかが難しい問題として残る。

例えば、官僚が審査して税金から配布する場合はどうであろうか。
審査がきちんとしたものでなければ、薄く広くばら撒くだけになるかもしれないし、
逆に接待がうまかったところだけに不必要にいっぱい金が入ってくるかもしれない。
少数の人間で考えている限り、キチンとした審査の方法など維持できるとも思えない。

NPO同士が選挙のようなもので戦って国民に決めさせるのはどうか?
これはコストがかかりすぎるし、投票率も低くなりそうだ。
最高裁判所の国民審査のように)
それに後述する寄付の場合と同じような欠点がある。

寄付はどうか?寄付の場合、社会への貢献度合いに対して金額が足りない場合がある。
ビジネスモデルが確立している場合と比べ、その貢献度合いが分かりにくい。
なので寄付する側は本当に役立っているのかどうか分からず躊躇する。
または、そんなに役に立っていないけど分かりやすいNPOに金が過剰に集まりやすいという
状況も起きてしまう。寄付は活動の分かりやすさで左右されすぎて、
実際の社会への役立ち度とは関係なくなる懸念がある。

もっと重大な問題は社会の役に立っているかどうかすら、
事後的にしか分からない活動が多いことである。
便益を受けている人たちが便益を受けていることが分かれば
直接お金をいただいて、つまりビジネスモデル上に載せることができる。
しかし、便益が今分からないから、払いようがない。

NPO同士をどのように競争させるか。
これは単純な問題ではなく、かなり難解な問題であることが分かった。
それは後述する政党の活動資金はどうあるべきかと同じくらい難しい。

書籍「現代政治学」の感想1: 集合知の優位性

書籍「現代政治学」(http://www.amazon.co.jp/dp/4641123314/)を読んで感じたことを
取りとめもなく書こうと思います。

少数の優れた人間を固定し、正しい判断をし続けることは難しい。
社会が複雑になり、高度に役割分担が加速している現代においては、
一人の人間が見えている、感じられている範囲に限界があり、
見えていない部分に関しては思考のモレが生じ、
そのモレが大きな失敗の元となるケースが増えていると思う。
いわば、一人ひとり見えている景色が全く違うので、
考えつくことも大きくことなってくる。いろんな景色を見ている人たちが
意見を出し合い検証しあわないと
少人数だと見えてない景色は必ずあり、見えていなかった領域から
問題が発生することがしばしばある。

昔はそんな必要はなかった。
現在ほど役割分担が高度化されていなかったので、全ての景色を見ることができた。
極端なことを言えば、旧石器自体では部族の中にどのような活動があるか完全に把握できるが、
今、アメリカの大統領が行政の全ての活動を把握することは絶対に不可能である。

これは政治にも会社経営にも、その他いろんなところでいえることだと思われる。

政治においては、社会主義の失敗は実は「みんなで検証しあう」という仕組みが
結果的には欠落していた。
現在の、自由民主主義においても、政府だけに頼るのではなく、
国民みんなで政治を考えようという動きが出てきている。
政府自体も全てを把握することに期待できなくなっている。
政治学の本(http://www.amazon.co.jp/dp/4641123314/)によると、
政治は、国がどういう状況にあるのかという情報を入力し、その入力を処理する政府、
出力として実行する行政とが
存在する。ようは、インプット、演算、アウトプットである。
日本の国民はおいては、アウトプットばかりを批判し、
インプットに関わってこなかった、と述べていた。
インプットに集合知が生かされていないため、アウトプットも一部のエリート視点で
考えられたものが出てきていた。
政府も、つらいんだと思う。インプットを欲しているが、単刀直入にも言いづらい。
なぜなら、「政府は何をすれば良いか分からなくなっちゃったから教えてください」
という文脈に誤解されると、それはそれで国民に批判されかねない。
ただ、よくよく考えれば政治家は国民の代理であるのだから、
分からなくなったら国民に聞くのは悪いことではないと思う。
少し違うかもしれないが、「新しい公共」という概念も、
インプットの多様性確保に非常に有意義であると思われる。
みんなの便益をみんなで考えて作り出す。インプットにもアウトプットにも
もっと国民が関わっていく時代が来つつあるのだ。
そう、政治家や官僚がやったこと(アウトプット)に
文句をいっているだけの時代は終わりつつある。
インプットを自分達の手で作り出すとともに、場合によっては、
アウトプットまで政府に頼らず作り出すことが、
これから必要なんだろう。

会社においても、ファシリテーション型リーダーとか、アメーバ組織とか、逆三角形型組織図とか、
多様性の確保、ダイバシティーとか、集合知を生かそうとした概念が増えている。
社長一人では、顧客の願望が分からなくなってきた。多様なインプットを得ることにより、
よりよいアウトプットを出そうとする活動が広がっている。
ワークライフバランスも、多様なインプットを得るための手法の1つだ。
これは1人の人間が多様なインプットを持ち込むということで、ダイバシティーで多様な人間を、
ワークライフバランスで個々人が多様なインプットを持ち込む。
両方やれば極めて多様なインプットが獲得できるのだ。
インプットに多様性がない会社は今後厳しいだろう。
なぜなら、顧客のことも社会のこともまるで分からなくなってしまい、
価値創造ができない、もっといえば、何が価値なのか分からなくなってしまうからだ。

集合知は最近、人工知能系の学会でも多く出てくる話題となった。
このような工学系の研究も融合すれば、社会作りはもっと良いものになるだろう。

今後書いてみようかと思っていることのメモ書き。

最近、政治学の本(http://www.amazon.co.jp/dp/4641123314/)を読みました。思ったことをいろいろ書きたいのですが、まずは下書きメモだけを載せてみます。


集合知の優位性(多様性の必要性、みえている景色が違う、全部見切れない)⇒エリート主義は良くない


・競争によって初めて社会の効率性が上昇する⇒ばら撒きや過保護は良くない


・正しい結果を導き出せる仕組み(メタ、上位の仕組み)の重要性(小選挙区など):5回のなぜ、小さい政党の乱立はダメ→集合知との関係が難しい


・適当に考えない重要性(データやシミュレーション、多様な意見など)


・グローバル・プログレティー
 核、飢餓、環境
 核:共通の安全
 飢餓:食糧支援がかえって飢餓を助長、農地改革の重要性、内外格差是正、食料は余っている、貧しいから人口が増える
 環境:地球規模の破壊


・お金は役割分担の道具
 役に立っているところにはお金が入るべき
 役に立たないところにはお金が入るべきでない
 NPOをどう競争させるか?NPOが役に立っているたっていないを同判断させるか?少数の完了だけで判断させると必ず間違える。
 政党は?政党とお金の関係を解決するのは相当な難問。税金をあてがうのも違うし、政党が事業をやるもの違う。寄付だといろいろ色が付く場合も有るし、もっとも集金方法が難しい組織。特に野党は政権交代の準備をするという重要な役割があるが、税金でそれをまかなうと与党批判が難しくなる。

失業者にプログラミングを教えて就職させる事業(案)

そういえば数年前こんな事業は出来ないかと考えていた。

なぜなら、
(1)少なくとも当時、日本国内ではプログラマー不足であった。
(2)プログラミングはある程度才能がある人なら短期間で出来るようになる。
しかも、このある程度の才能がある人は予想以上に多く、前職が何であるかとか、
学歴、理系文系、男女、ヤル気があるかどうか、などは全く関係なさそう。
(3)上記の「ある程度の才能」が有るかどうかはほとんどの場合、本人は気づいていない。
(4)ある程度プログラミングが出来れば、顧客先に派遣されそこで学習できる。
そのため、就職先の質はあまりこだわらなくても良い。(あんまりブラックな会社はもちろんダメだが)

(1)は今ではどうなのか分からない。業界の人の話を聞いてみたい。
少し関係ない話だが、うちの会社は今でもプログラミングが出来る人が少なすぎて
業務効率化や新しい事業への参入が遅くなっているのは間違いない。
(たいがいプログラミングが出来る人に業務が集中する)

(2)、(3)に関しては、私は社内でいろんな人にプログラミングを
教えるという経験がある。
教えて欲しいと希望してきた人はもちろん、仕事上知っておいた方がよいと思われる人にも無理やり教えた。
出来ない人はいくら教えても出来るようにならないし、
まったくの未経験者でしかもヤル気がない人でも、すぐに出来るようになる人もいる。

ここの対応は、
(あ)あらかじめ出来る人と出来ない人を判別するテストを開発する
(い)教え方を改善して出来るようになる対象者を増やす
の2つが考えられる。恐らく2つとも必要であろう。

(あ)に関しては、もう7年ほど前であるが、私は就職活動をしているときに
SIer企業をエントリーしたさいにいくつか試験を受けたが、それが参考になるかもしれない。
IQテスト的なものが多かったように思う。
(中にはエントリー段階で何でもいいからソースコードを提出させて社長がそれを判断するというものもあった)
ただその後のプログラミングが出来るようになったかという結果は
芳しくないものもあったのではないかと思う。
いずれにせよ、この手法が確立すれば、派遣村に来ている人や浮浪者からも
プログラミングが出来るようになる人をピックアップして、就職させることが可能であろう。
ここまでくればヘッドハンティング業としてかなりの手数料を取れると思う。

ちなみに話はずれるが、幹部候補生を雇いたいならコンピテンシーという手法がある。
ただこれは面接官にかなりの技術が必要であるため
まともに出来ている会社はほとんどないように思う。
おそらく、プログラマーに求められる能力はこれとは違うと思われる。

(い)に関してはかなり工夫したつもりだが、改善のよちはあるかもしれない。
教えるというのは本当に難しい。分からないポイントが人それぞれ違うから。

そもそも私がこれを考えるようになったきっかけは、
数年前、大学を辞めてふらふらしていた親戚との出会いだ。
第一印象としては、なにもかもヤル気をなくしていた感じだったが、
丁寧に話を聞いてあげると全然そんなことはなく、仕事をしたいんだという気持ちを感じられた。
ハローワークで見つけたプログラマーという職業に興味を持ち
就職したいと考えたが、面接での自己表現技術があまりなく苦戦が強いられた。
私の家で1~2ヶ月ほど住み込んで就職活動していたのだが、その間はなるべく面接技術のようなものを指導した。
その結果、手堅い経営をしているIT企業に就職できた。

頑張って就職の後押しをしてあげてよかったと本当に思う。
ただ反省点もある。私が教えたのは面接技術だけで、キャリアカウンセリング的なことは全く出来ていなかった。
彼はプログラミングの才能があったため成功した就職となったが、もし才能がなかったと思うとぞっとする。
そのあたりのことは全く考えていなかったことが、今振り返ると大きな反省点だ。
実際彼と同時期に入社した多くの人がプログラムが組めるようになる前に辞めていったそうだ。

そんな彼は今では、尊敬するIT技術者となっている。

宗教戦争をなくすには…

宗教戦争を無くすためには・・とことん考えた学者が辿り着いた結論は「自分がされて嫌なことは他人にはしない」でした。非常に良い講演だと思います。"9 languages [off]"をクリックして"Japanese"を選ぶと日本語字幕が出ます。

http://www.ted.com/talks/karen_armstrong_let_s_revive_the_golden_rule.html

人類の進化とは

そういえば、織田信長は仏教は好きでなく、
キリスト教が好きだった。
日本には昔から神道や仏教が混ざり合って存在した。
「神さま、仏さま」という何気ない言葉にも、一人の人間が、
二つの宗教の神をあがめているということを示している。
いや、それはちょっと違う、どちらにもあまりのめりこんでいない、
と言ったほうがいいかもしれない。

織田信長仏教徒を迫害したようだが、
別に生まれたときからキリスト教だったわけではないし、
どうも、完全なキリスト教信者になったわけでもなさそうだ。

私が旅をしてきて、なかなか日本という国の説明が難しく、
外国人から「神秘な国」として捉えられてしまう理由は、
まさに、このあたりの「のめりこまない宗教観」は
「特定宗教にのめりこんでいる人たち」には根本的に理解できない
からではないかと思ってしまう。
彼らには、正月は神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式には坊さんが来る、
ということが全く理解できないだろうし、これを説明するのは極めて困難である。

そして我々日本人がなかなか宗教戦争を理解できないのも
根本的に「特定宗教にのめりこむ」というのが理解できないんだと思う。
付け加えるならば、人種対立型の戦争も、多くの日本人は
根本的に理解できない。

戦争の多くが宗教対立や人種対立から来ていることを考えると、
だからこそ、日本人にしか出来ない世界平和に向けた活動が
あるんじゃないかと思う。

宗教対立、人種対立、これらが必要になった背景には、
大まかに言えば、社会を維持するために極めて極端な格差社会
必要だったからだと思う。

人類の進化に必要なものは、大げさに言えば、2つしかない。
・ 科学技術の進化
・ 社会システムの進化
科学技術が未熟だった中世では、社会システムを構築し維持する人たち(国王とか官僚とか)は、
例えば、移動するには徒歩ではやってられないので馬車や人力車が必要になる。
馬の管理をする人も護衛もいっぱい必要だし、移動するだけでいっぱい人を雇う必要がある。
狩や畑仕事もやってられないし、食事を作るにしても多くの料理人を
私的に抱えなければならず、莫大な収入がないと、
社会システムを構築・維持する職業に専念できない。
逆に言えば、馬車の管理とか畑仕事など人手がかかる仕事のコストは、
つまり給与は圧倒的に安くないと社会自体がやっていけないことになる。

しかし、科学技術の進化により、自動車などの移動手段が増え、
農業も機械化され少人数で出来るようになり、私的に人をやとう必要性も減っていき、
格差が少なくても社会が成り立っていくようになる。
これは科学技術の進化が必要ではあるが十分ではなく、
社会システムの進化により、人々の役割分担が高度になっていく必要もある。
食べ物を作る人たちはそれに専念し、少ない人数で大量の食料を作ることにより、
食べ物を作る人たちの給与が高くても社会がやっていけるようになる。
これまで国王とか官僚とかは自前で警備員や兵隊を雇っていたのも
警察や軍隊といった専門集団を皆で共有する社会システムが出来ることにより、
警備する人が警備される側よりも少ない人数で出来るようになり、
警備する人の給与とされる側の給与の格差がなくてもやっていけるようになるのだ。

社会システムの進化が伴って、科学技術が正しく使われることにより、
人類は進化していく。
もっと言えば、科学技術と社会システムの両方の進化が、社会の効率性を上げ、
それこそが人類の進化なのだ。

人種対立、宗教対立は、科学技術が未熟だった時代に必要だった格差を生み出すために、
必要なものだったんだと思う。つまり、他人種や異教徒を奴隷にしたりて、
階級ピラミッドの下のほうに押しやった。
多くの差別社会において、ピラミッドの底辺は他人種が多い。
それはもともとは異教徒だったが、ピラミッドの頂点の人たちが
自分達の宗教を押し付けて、見た目上、同教徒になった場合が多い。

そう考えるとピラミッドの底辺を自分達はやりたくない、
そこを(多くの場合異教徒である)異人種にやらせてしまおう、
そのために侵略をしよう、となるケースが多かったのではないかと思う。
これが戦争が絶えない理由だった。

さて、日本はといえば、明治時代以前は、
島国だったこともあり、異なる人種を支配したり、異なる人種から支配されたりという経験は
他の大陸国に比べて多くなかった。
それどころか、異教徒であったはずの仏教が、ものすごく大きな侵略があったわけでもなく、
神教を迫害することなく、自然と混ざっていった。
儒教なんかも、自然に溶け込まれていった感がある。
ましてや、織田信長は争うどころか、自らキリスト教を学びに行った感すらある。

特定宗教にのめりこまない、ある意味、異教徒との無駄な争いを起こさない、
そのための知恵であったように、感じてしまう。

では、ピラミッドの底辺作りをどうやってやったかといえば、
いわいる、士農工商に続く層を、同人種内で作り上げたのだ。
内部でまかなったわけであるが、内部の差別的対立は増したものの、
外部との緩やかな融合をすることが出来た。

私は、このような日本の性質をインドに来てやっと気づくことが出来た。

インドは、あのガンジーのイメージがあるからかも知れないが、
大きな戦争をしたというイメージが、現在のカシミール紛争以外に、ない。

確かにイギリスに侵略はされた。しかし、独立化は武力によらなかった。

インドのカースト制度は基本的に、同一人種内で構築された。
しかし、この地を長く支配したムガール帝国は、もともとイスラム教徒の
侵略者ハズだったのが、ヒンドゥー教徒うまく交じり合った。
それどころか、キリスト教もうまく取り入れ、その証拠に、
ここの国王は、自分はイスラム教徒なのに、ヒンドゥー教徒
キリスト教徒と、改宗させることなく結婚している。

これは恐らく、ヒンドゥー教内部に、カーストというピラミッド形成を
あらかじめ作っておいたため、人種間や宗教間でピラミッドを構成する必要性が
生じなかったからであろう。

まさに、内部に差別的対立を作る代わりに、
外部とは仲良くやっていこうとする、日本と似たような構造がうっすらと見えた気がするのだ。

日本は平和な国に見える。外部と仲良くやっていくすべを世界一持っているといっても過言ではないと思う。
それはまさに、私が旅をしてきて、日本人というだけで、どこの国の人とも仲良く出来た、経験から、そう思うのだ。
しかし、その代償として、内部に残された、非常に分かりにくい、
なんとも表現しづらい階級社会は、まだまだ残っているし、
取り除いていく努力をしていかなければならないということを、今回、初めて気づいた。

インドはまさに、日本のこのような構造が、端的に現れている数少ない国なのだと思う。
だから、私は、インドに来て始めて、日本のこの構造が理解できた。

人類は、科学技術の進化と、社会システムの改善により、
内部の格差も、外部との格差も、その必要性を減らすことが出来る。
そしてそれにより、戦争の必要性を減らすことが出来るのだ。
これこそが、人類共通の目的ではないだろうか。