哲学者ポパー: 推測と反駁 2/2

 ポパーの「推測と反駁」の続きです。「白いカラス」の話をもう一度深く掘り下げてみましょう。「カラスはすべて黒い」という法則と「カラスを1000羽観測したら1000羽とも黒かった」は全然違います。前者は確証性が低い推測された法則で、後者は論理的に高い確率を持った観測です。両者を混同している人たちはあらゆる分野の学者の中にもいると、ポパーは指摘しています。ましてや「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」という場合、「カラスはすべて黒い」という法則は反駁完了しており一切成立しません。「カラスはすべて黒い」という法則が高い確率で成立しているとは一切言えず、この法則は全くもって一切成立しないのです。
 
経験と法則の違い
「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」は、同一環境・条件で観測した場合「黒いカラス」のほうが論理的に高い確率で存在することだけを示しています。環境が変われば異なる可能性があり、高い確率で成立する「法則・理論」と考えるのは危険なのです。法則は観察の積み重ねで生まれるわけではありません。観察をしていて殆ど「黒いカラス」だからといって「カラスは黒い」という法則は一切、生まれないのです。これは、過去データに頼る金融工学への警笛であり、ダレブがブラック・スワンと呼んだものもこれに相当するのだと思います。経験と法則はまったく違うものになることがあるのです。 

実はパラダイム・シフトではない例
 ポパーの「推測と反駁」の続きです。小さい話題をいくつか書こうと思います。
ポパーは一見「パラダイム・シフト」に見える思想の転換点においても、いつもどおりの単なる「大胆な推測」に過ぎない例がいくつもあると指摘しています。例えば、天動説から地動説は、パラダイム・シフトではないと指摘しています。地球が宇宙の中心であるという推測は、ある宗教の要請であり、太陽が宇宙の中心であるという推測も、ある宗教の要請であって、ただそれだけのことなのです。実際、20世紀になってから、いずれも反駁された、というより、その推測自体あまり意味を持たなくなりました。というのも、宇宙空間に2つの天体がある場合の運動方程式は、2体問題とよばれ、完全に解かれました。その結果、2つの天体の重心(どちらの天体でもない位置にある)を固定した座標系で計算すると計算しやすいことが分かりました。また、アインシュタイン後の宇宙論の発展により宇宙に中心がないことが分かっています。
 
反駁しにくいほうを立証しろと主張する詭弁
二つの主張が対立した場合、反駁しやすいほうをテストすべきです。というのも、反駁しにくいほうを主張する人に「反駁できないことを証明する」ことは極めて困難であるからです。これは詭弁の一手法としてよく使われます。例えば、痴漢の冤罪事件では、「痴漢をしていない」という推測は、「痴漢をした」という証拠がひとつでもあれば反駁可能で、反駁しやすい大胆な推測です。これは「カラスは黒い」という推測に対して、一羽でも「白いカラス」を連れてくればいいことに対応します。ところが、被告人は「痴漢をした」という推測を反駁しなければならず、この推測は「していない」という証拠が必要ですが、これは入手困難です。これは、「白いカラスがいるかもしれない」という推測に対して、何万羽の黒いカラスを連れてきて反駁しないといけないことに似ています。このように考えても日本の痴漢裁判は大変大きな問題を抱えているといえます。
 
政治学への応用
実学応用に関しては、政治学への応用があります。実際、ポパーは推測と反駁を応用して、社会主義を批判し、「開かれた社会」という概念を打ち立てます。これは組織論一般にも展開でそうな考え方でもあるので、今後書こうと思います。

哲学者ポパー: 開かれた社会

「開かれた社会」とは

科学哲学者であるカール・ポパーは著作「推測と反駁 ~科学的知識の発展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/)の中で、科学の発展の仕方を論じていますが、その応用として、「開かれた社会」という概念を打ち出しています。この概念により、当時、学者達の中でも支持の広がりを見せていたマルクス社会主義思想に対して真っ向から批判をしました。

 

ヘーゲル弁証法を悪用したマルクス

ポパーは、マルクスヘーゲル弁証法を悪用し、批判を封じ込めていると、批判しました。マルクス弁証法でのべることを批判者に強要し、弁証法ではない方法での批判に耳を傾けませんでした。批判すべき点があるのなら弁証法で批判できるはずだという論述をマルクスは繰り広げ、巧みに批判をかわしてきたのです。マルクスが主張する弁証法ヘーゲルの主張から改悪されており、ヘーゲルにとっても不本意であったでしょう。

 

民主主義 社会主義

民主主義対社会主義は長い間続きました。民主主義国家に住む学者達でさえ、社会主義を支持する人が多くいた時代です。それでもポパーは、社会主義か民主主義かというイデオロギー以前の問題として、社会主義には批判を封殺する仕組みが内在しているという理由だけで、社会主義はうまくいかなくなるとあてて見せたのです。批判の方法を批判される側が制限することは、科学的ではありません。つまり、政体として、うまくやっていけるかどうかは、「批判はどのような手段で行ってもよい」というのが絶対条件であり、社会主義であってもそれが成立していればうまくいく可能性はあるし、逆に詭弁を駆使すれば、批判の手段を制限することが出来、うまく行かなくなる社会になります。ポパーは、この違いを「開かれた社会」か「閉じられた社会」と区別するようになるのです。

 

民主主義でも閉じた社会を構築可能

「開かれた社会」の続きです。民主主義であっても批判の手法を限定させて閉じた社会が構築可能です。ブッシュ政権イラク戦争を行っていたころ、ソロスは政権がこれをおこなって閉じた社会を構築しようとしているとして批判しました。政権に対して取材が出来る人を限定したり、陳情を特定のルートにしぼったりと、現代でもいろいろなテクニックが使われます。社会を組織に読み替えれば、組織でもそのまま当てはまるものです。金融工学系の学会では、学会発表するために、知り合いに討論者を頼まなければならないといった習慣があります。これも批判の手法を限定する巧みな制度なのです。

 

批判させるのも難しい

批判というのは自動的には出てきません。継続的にうまくいく社会を作るためにはあらゆる手段で批判が出てくるようにしなければなりません。コストをかけてでも批判をかき集めるような政体でなければ、だんだんと社会は「閉じて」いき、いずれ破綻します。民主主義でもたゆまない批判の収集の努力がなければ、行き詰ってしまうのです。

 

ポパーが残した議論の「心構え」

 最後にポパーが残した議論の心構えをそのまま書いておきます。

「私は自分が正しいと思うが間違っているかもしれない。そして君が正しいかもしれない。ともかくそれを討論し合おう。なぜなら、それによってお互いが自分が正しいと言い張っているよりも、真の理解によりいっそう近づける見込みがあるからだ。」

「お互い自分の意見を相手に納得させようとしているだけでは、それは議論ではない。両者に、自分は納得させられるかもしれない、お互いのどちらの意見とも異なる第3の意見に納得するかもしれない、という心構えがないと議論にならない。」

 

カール・ロジャーズ 1/2

■ もう半年ほど前に読んだ本
 もう半年ほど前ですが、カール・ロジャーズの「人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る」http://www.amazon.co.jp/dp/4422113895/ )。何故この本を読み始めたかというと、産業カウンセラー協会が推奨している心理カウンセリング手法が、カール・ロジャーズが確立した手法を推奨しているからでした。私の家内が産業カウンセラーの勉強をしていたことがきっかけでこの分野を知り興味を持つようになりました。それと、コーチングやファシリテーションなど、ビジネスの世界で普通に使われているコミュニケーション技術の根幹をなす技術、傾聴(よく聞くこと)を、最も高度に要求されるのが心理カウンセリングの分野であり、この分野の傾聴技術は仕事や日常生活、趣味の領域でも役立つと思ったのも理由でした。
 
■ 孤独とは何か、共感とは何か、関心とは何か。
 産業カウンセラーのみならず、いずれの分野の心理カウンセラーも、心の奥底にあるものをえぐり取られるような経験をしないと、いいカウンセラーになれないのかもしれません。少なくとも、自分自身の心の奥底と向き合えないといけないのだと思います。カール・ロジャーズも様々な苦悩を経験しながら、現在では常識とされる心理カウンセリング手法を編み出しました。
 
■ 何をするにもあったほうが良い知見が書かれた本
 この本に書かれていることは人間が言語を使って行う活動に普遍的に起こることで、どんなことをするにも役立つ知見だと思います。特に人を教育する場合にはとても参考になります。実際最近は、教員免許を取る場合にはこのあたりの技術習得が必須化されたようです。ただ、本の章立てがよろしくなく、バラバラでとても読みにくいです。正直、1章、6章、7章、8章、10章だけ読めば十分だと思います。むしろ他の章は賛同できない内容も多いもので・・・。次週から具体的内容を紹介していきますが、次回はまず、カール・ロジャーズが何者かを書きたいと思います。
 
■ 何者か?
 正直に申し上げるとこの本を読んでもイマイチ、彼が何者かが良く分からなかったので、wikipediaの内容を参考に紹介します。
 
■ 牧師を目指すも心理学に転向
 1902年にアメリカの宗教に厳格な家庭に生まれたロジャーズは当然のように牧師を目指していました。しかし、神学校に通ううちに疑問を感じ、臨床心理学へ転向します。その後、ニューヨーク児童相談所での研修を経て、ロチェスター児童虐待防止協会でカウンセラーをすることになります。当時のカウンセラーは指示的な手法を用いていました。つまり、「あなたはこうした方がいいですよ」とアドバイスする手法です。ロジャーズはこの指示的な手法で、子供たちを救えていないことに気付き、自ら理論的枠組みを作りなおしました。それが、非指示的カウンセリング(専門的には「来談者中心療法」)を確立させました。非指示的とは、「ああしなさい、こうしなさい」とは言わずに、相談者自身が解決方法を探す手伝いをするという手法です。現在ではほとんどの心理カウンセラーの専門家はこの手法を用いています。
 ちなみに、テレビなどで相談にのる人は指示的な人が多いように思われます。テレビ的には、実際には効果がない指示的な手法のほうが盛り上がるからなのでしょうね。非指示的カウンセリングは効果があってもテレビ的には絵にならないということなのでしょう・・・。
 
■ なぜそのような手法に至ったのか
 テープレコーダーの発明により、カウンセリング時のやり取りと、その後、相談者が悩みを解決できたかどうかの因果関係を調べることが可能になりました。ロジャーズは、思い込みを捨て、この因果関係を丹念に調べた結果、「指示的な手法」が効果を生んでいないことを突き止めました。このように、「なんとなくそう皆が言っているから」とか、「そうに決まっている」といった思い込みを捨て、短絡的な結論付けをせず、本当にそうだろうかと考え、丹念に事実関係を考えたロジャーズの姿勢は、見習うべきところがたくさんあるように思います。
 
■ 理論の大元になる信念
 彼が非指示的な手法をとるように至ったのには、人間には、もっと言えば、生物にはすべて「実現傾向」があるという信念があったからでした。
 
■ 実現傾向とは何なのか?
 生命は必ず良い方向へ向かおうとしているとロジャーズは考えています。反対の考え方は、生命は悪いことをしようとするので統制しなければならないという考え方です。ロジャーズはほっとけば良いと考えているのではなく、良い方向に向かおうとしている生命を、邪魔しない、そして、良い環境を作ってあげて、実現能力を引き出してあげることが大事だと考えているようです。愛という概念は、実は他人に対しても良い方向へ実現してあげたいという実現傾向の一種だと解説されています。
 彼の書籍から引用しましょう。「生命体は絶えず探求し、何かを始め、何かに到達しようとしているのです。人間という生命体においてはひとつの中心的活動源があります。この源は生命体全体の有力な機能です。簡単に言うと、生命体の維持だけではなく、その向上を含むような実現、充足への志向であります。」
 
■ どんな困難な状況でも自力で解決できる能力を持つ
 実現傾向があるため、どんな困難な状況におかれた人も自力で解決できる能力があると考えています。そのため、困っている人に「ああしなさい」「こうしなさい」とか指示する指示的なカウンセリングでカウンセラーの能力に頼る方法よりも、その人の能力を引き出すための話を聞いてあげる、傾聴、を用いた手法、非指示的な手法のほうが優れていると考えました。言いかえると、ティーチング的手法、つまり解決方法まで細かく指示する方法よりコーチング的手法、目標をはっきりさせて解決方法は傾聴しながら任せる手法がいいと考えたのでした。つまり仕事を与える人を、「たぶんできないだろう」と考えるのではなく「できるに違いない」と考えるということです。指示を出す側は指示を受ける側の能力を低く見積もりがちです。しかも、自分が考えている手法と違う手法で解決するのを快く受け入れられない心境に陥ってしまう場合すらあります。なので、ちゃんと話を聞いてあげれば出来るんだ、と思うことが大事なのかもしれません。
 
■ 難解な実現傾向という概念
 彼の言う「実現傾向」は難解な概念です。先週私は自分の言葉で噛み砕いて説明したつもりですが、原文の改悪だったかもしれません。ですので、難しい文章が続きますが、該当する原文を見てみることにしましょう。
 
■ 実現傾向:原著での解説部分
-------ここから引用--------
(p.104)
 人間中心アプローチが人間並びにあらゆる生命体に基本的信頼を置くことは実践、理論、研究において明確です。それを証明する多くの理論があります。あらゆる生命体は、各水準において内在する可能性を建設的に開花させようとする基本的動向を所有していると言うことができます。人間においても、より複雑で、より完全な発達に向かう自然の傾向が存在します。これを表現する用語として一番良く使用されるものは「実現傾向」であり、これはあらゆる生命体に存在します。
(中略)
 少年時代に食用とするジャガイモを入れていた地下室の貯蔵箱を思い出します。それは小さい窓から二メートルも地下に置かれていました。条件は全くよくないのにジャガイモは芽を出そうとするのです。春になって植えると出くる緑の健康な芽とは似ていない青白い芽を出すのです。この悲しいきゃしゃな芽は窓から漏れてくる薄日にとどこうと、60センチも90センチも伸びるのです。この芽は奇妙な形ですし無駄ですが、私が述べてきた生命体の基本的志向性の必死の表現と見ることができます。
(中略)
  (恐ろしくゆがんでしまった人生を持つ)これらの人々は、異常でゆがみ、人間らしくない人生を展開させてしまったひどい状況にあります。けれども、彼らの中にある基本的志向性は信頼することができます。彼らの行動を理解するてがかりは、彼らは彼らに可能な方法で成長と適応に向かってもがいているという事です。健康な人間には奇妙で無駄と思えるかもしれないけれど、その行為は生命が自己を実現しようとする必死の試みなのです。この前進的傾向が人間中心アプローチの基底なのであります。
 
(p.108)
  かくして、あらゆる動因の基本が生命体の広範な行動、広範な要求への反応の中に自ら表れているのかも知れません。確かなのは、ある特徴的な基本的要求は、他の要求が明確になる以前に少しでも満たされていなければならないということです。従って、生命体が自己を実現する傾向が、ある時点では食物や性的満足を求めることであるかもしれません。しかしながら、その要求がどうしようもないほど大きくない限り、自己の尊厳を低めるのではなく高める方向で満たそうとします。また、生命体は環境との相互関係において他者の実現をも求めます。環境を探求したり変化させようとしたりする要求、行動を起こそうとする要求や自己探求の要求、これらはすべて実現傾向の基本的表出であります。
  すなわち、生命体は絶えず探求し、何かを始め、何かに到達しようとしているのです。人間という生命体においてはひとつの中心的活動源があります。この源は生命体全体の有力な機能です。簡単に言うと、生命体の維持だけではなく、その向上を含むような実現、充足への志向であります。
-------引用ここまで--------
 
 

カール・ロジャーズ 2/2

(続き: 必ずこちらを先にお読み下さい。 http://blogs.yahoo.co.jp/mizuta_ta/19563563.html )
 
■ 「自己一致」:本当の孤独とは何か
 彼が提唱した重要な概念は、先週までに紹介した「実現傾向」の他に、「自己一致」、「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」があります。今週は「自己一致」について書こうと思います。
 
■ 孤独には二種類ある
 孤独には二種類あります。ひとつは一般に良く考えられている孤独で、コミュニケーションをとる相手が少ないという孤独です。もうひとつは、自分が本当は感じていることと、こう感じなければならないという感じ方が違う、つまり、自分の本当の感情と表に表現して出てくる感情が一致していない内部分裂による孤独です。この本を読むと、後者の孤独のほうが圧倒的に孤独であり深刻であることが分かります。この後者の孤独な状態を「自己一致」していない状態だと言います。この孤独に気付かせ解放させるのも心理カウンセラーの役目ですが、もちろん、心理カウンセラー自身が自己一致していなければそれはできません。カウンセラーの養成では、まずは自分が自己一致させる訓練も行うようです。
 
■ 自己一致していない人物の例
 エレン・ウエス(Ellen West)という実在人物の症例を出して説明していました。簡単に言うと彼女は子供のころから、「こういう子になりなさい」、「こういうときはこう感情をだしなさい」と教育されすぎたため、素直な自分の感情が表現できず自分の感情がわからなくなり、自己分離してしまい、最後には自殺してしまいました。注意すべき点は、彼女は誰からも優等生だと思われ、社会活動を積極的に行い、話をする人も多かったにもかかわらず、孤独だったということです。彼女の研究は哲学者や過食症の研究など、ひろくいろいろな分野で行われました。詳細は省きますが、ロジャーズはこの症例をこんな風にまとめています。
-------ここから引用--------
(p.149)
乳幼児期、私たちは経験の中で生き、それを信頼しています。赤ん坊の空腹時に食物を得ようと努力すべきか否かを疑ったり迷ったりはしません。意識とかかわりなく自己を信頼して生きています。けれどもある年齢になると、親か誰かが「そんな風に思うのは、いやだよ」と効果的に告げます。そこで、感じていないことを感じるべきだと思い始めます。そして、こう感じるべきだという形で自己を築きます。自己が実際体験しつつある姿を直視するのは時たましかありません。(中略)彼女は自分であることをあきらめたのでした。(中略)彼女は自分がどう感じ、いかなる考えを持っているかがわからなくなっていました。これは最も孤独な状態です。自律的生命体からの完全な分離と言えます。
-------引用ここまで--------
 
■ 「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」
 彼が提唱した重要な概念は、これまで紹介した、「実現傾向」、「自己一致」、の他に「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」があります。今週と次週で「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」について書こうと思います。
 
■ 話しやすい聞き方
 誤解を恐れずに言えば「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」は話しやすい聞き方とはどういうものかを言おうとしているものです。実現傾向を最大限に引き出し、つまりその人の能力を最大限に発揮させるための、話の聞き方、もっと言えば、コーチングの仕方に、この2つがとても重要であるともいえると思います。
 
■ 無条件の肯定的関心
 「無条件の肯定的関心」は、話している人のありのままを受け入れて聞くということです。話している人に「こうして欲しい」とか思わず、まずはありのままのその人を受け入れるところから会話を始めるべきであるということでしょう。ロジャーズはこんな表現をしています。
-------ここから引用--------
 (p.19)
 私は、肯定的感情を提供したり受け止めたりすることに恐れを感じなくなってから、他者をより尊重するようになりました。また、他者を尊重することは難しいことであると考えるようになりました。自分の子供に対してすらそうなのです。子供たちをこころから尊重して愛するよりも、彼らを思いのままに動かして愛していることがあまりに多いのです。私が最も充実を感じるのは、私が日没の美しさをこころからいとおしむように、目の前にいる人をこころからいとおしんでいる時です。その人をありのままに受け止めるなら、日没の景色と同じように素晴らしいものです。私たちが日没を心からいとおしむのは、太陽を思い通りに動かせる等と思ってもみないからでしょう。夕焼けを見ながら、「右側のオレンジ色をもう少しぼかして、下のほうの紫をもう少し広げて、雲はバラ色にしたいな」等とつぶやくことはありません。日没を自分の意思で動かそうとは思いません。日が沈む様を、畏敬をこめて見守ります。これと同じように、同僚、息子、娘、孫たちを見守るのが私は最高に好きなのです。こういうあり方は東洋的態度なのだと思います。私にとっては、それが最も満足できることなのです。
-------引用ここまで--------
 
■ 「共感的理解」
 彼が提唱した重要な概念は、これまで紹介した、「実現傾向」、「自己一致」、の他に「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」があります。今週と次週で「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」について書こうと思います。
 
■ 話している言葉と伝えたいことは異なる
 例えば「なんだか面倒になってきたしそろそろ引退しようかな」といった場合でも、思っていることは全く逆で、単に止めて欲しいと思っている場合もあります。話している言葉通りのことを思っていることもあれば、言葉通りとは逆のことを思っていることもあります。仕事を依頼しに来ているのに言葉には出さないけど実は家庭の悩みを聞いて欲しい・・・そんなこともあるでしょう。そういう言葉には出てこない本当は伝えたいことが、あるかもしれないという態度で話を聞くことが重要だということです。ロジャーズはこのことについてこんなエピソードを紹介していました。
-------ここから引用--------
 (p.8)
 友人があることに関して長距離電話をかけてきました。話し終わって受話器を置いたのですが、その時の彼の調子が私を揺り動かしたのです。話し合った事柄の背後に、内容とは全く関係のない失望、落胆を感じ取っていたのです。それがあまりに強烈だったので彼に手紙を書きました。「私が言おうとしていることは誤りかもしれないが、もしそうだったらこの手紙はゴミ箱にほうりこんでくれたまえ。実は、受話器を置いた途端、君が失望と苦痛を味わっているように聞こえてきたのだ。本当に絶望していると。」そして、私が彼に対して感じていること、彼の状況に関して役立つと思われる私自身の気持ちを書きました。少々馬鹿げているかもしれないとの不安を抱いて投稿しました。すぐに返信を受け取りました。彼は、誰かが彼を聴き取ったことを喜んでいました。私が彼の声の調子から聞き取ったことは正しかったのです。私は真の彼を聞き取り、真のコミュニケーションを持てたことが嬉しく思われました。この例のように、言葉がある事柄を伝え、声の調子が全く別のことを伝えていることは多いものです。
(中略)
 私は次のような空想をします。地下牢に閉じ込められたまま、「聞こえる人はいませんか?」「誰かそこにいませんか?」とモールス信号を打ち続けていて、ある日ついに「はい」というかすかな応答を聞いたという空想です。その応答が彼を孤独から救いだすのです。彼は再び人間となるのです。今日、数えきれない人々が孤独な牢の中で生きています。皆さんがその牢から流れてくるかすかな信号を鋭く聞きとめてやらなければ、外の世界の存在を知らない人々がいるのです。
-------引用ここまで--------
 
■ この本の問題点
 この本は実はとても賛否が分かれている本です。私が考えるこの本のダメなところ、もっといえば、ロジャーズの考えのうち、今日否定されている(というより殆ど取り上げられなくなった)ことについて、最後に述べておきたいと思います。
 
■ 適応範囲を広くとらえ過ぎ
 彼は人間の「実現傾向」、つまり自力で解決できるという考えの適応範囲を広くとらえ過ぎています。私は初めの週で、正直、1章、6章、7章、8章、10章だけ読めば十分で、むしろ他の章は賛同できない内容も多い、と述べたのはそのためです。例えば、脳に障害があったり知的障害であったりしても自力解決ができると彼は考えていますが、現在では、それは無理だと言われています。また、彼は小学校でも勉強する科目を児童が自由に選ぶべきだと述べていますが、これも無理ですし、基礎学力そのものの否定につながってしまいます。彼は講義形式すら否定的でした。例えば彼を講演会に呼んでも何もしゃべらず、聴衆が良い方向に持って行ってくれるはずだと、何もしなかったりします。教育において、もっといえば企業においても、講義形式とファシリテーターを置いたディスカッション形式は使い分けが必要であると現在では、当たり前とされていますが、ロジャーズは講義形式そのものを否定していました。
現在でも未解決な問題としては、どこからが自力解決不可能な「病人」で、どこからが自力解決可能な「健康な人」なのかということです。つまりどこからが精神病なのかという議論です。うつ病は薬が開発されるなど病気だと言われ始めていますが、まだ「実現傾向」を失っていない段階であるという主張もあり、産業カウンセラー協会と精神系医学の諸団体が対立するほど、どこに線引きをするかは困難な問題です。逆に言えば、その状態になる以前の人は「実現傾向」が信頼でき、指示的な助言より、非指示的な、話をよく聞き能力を引き出すやり方がうまくいくことを示しています。
 
■ ティーチングとコーチングも使い分け
 コーチングが万能だという人がたまにいますが、そんなことはありません。名刺交換のやり方を「名刺交換の目的」を教えてどうするのがベストか考えさせるのかは、不毛としか言いようがありません。ただ、やり方を考えさせるコーチングの手法は、極めて広範囲に使える、というより、使うベキ手法であることは、今日、明らかになったところではあります。特に、緊急を要しない(数週間時間をかけられる)重要な問題の解決をさせるには、コーチング的手法でしか教育できないでしょう。

ポパーまとめ(twitterの呟きを並び替え)

2010年03月29日(月) 1 tweets

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800ページもある哲学書を買った。他の哲学書は他の方々に任せ、私はこれを読もう。1年くらいかかりそうだけれども・・・。 「推測と反駁-科学的知識の発展」 カール・R.ポパー http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/
posted at 23:11:27

2010年07月06日(火) 1 tweets

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哲学書の読書進捗が滞っている。しかし、カール・ポパーの本は読みやすいと言ってしまったけど、もしかしたら、物理学への考察が多いこの本は、私が物理をやっていたから分かりやすく感じるだけで、普通の人には分かりにくいのかもしれない。この本を研究会で紹介するときは物理の説明からしよう。
posted at 22:43:50

2010年07月18日(日) 18 tweets

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哲学者ポパー1: 法則というのは初めは直感から生まれる。その法則が、あり得なさそうな、そしてシンプルにもかかわらず多くの現象を説明できるほうが好まれる。つまり、反証可能性が高く確証性が低いものが良い。これが推測。
posted at 00:13:10
哲学者ポパー2: よい法則ほど反証の手段が多くある。その法則は多くの批判的テストにさらされる。その批判に耐えられたもののみ、法則として生き残る。ただ、反証されたとしても人類に別の形の知見を残す。これが反駁。
posted at 00:14:44
哲学者ポパー3: 推測された法則は確からしさが低そうなものが常である。「aはaである」のような反駁を試みる前から確からしいものは推測は、人類の進歩をもたらさない。たまたま運良く反駁に耐えている法則が、今のところ使える法則であり、永久に反駁されないことを保証しているわけではない。
posted at 00:30:11
哲学者ポパー4: テストがしづらかったりできない法則は価値が低い。「ある場所である呪文を唱えると悪魔が出現する」という法則はほとんどテスト不能なので、ほとんど価値がない。
posted at 00:33:12
哲学者ポパー5: 「カラスはすべて黒い」という法則と「カラスを1000羽観測したら1000羽とも黒かった」は全然違う。前者は確証性が低い推測された法則であり、後者は論理的に高い確率を持った観測である。両者を混同している人たちは哲学者の中にでさえいる。
posted at 00:48:32
哲学者ポパー6: ましてや「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」という場合、「カラスはすべて黒い」という法則は反駁完了しており一切成立しない。「カラスはすべて黒い」という法則が高い確率で成立しているとは一切言えず、この法則は全くもって一切成立しないのだ。
posted at 00:49:43
哲学者ポパー7(私の考察1): 「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」は、同一環境・条件で観測した場合「黒いカラス」のほうが論理的に高い確率で存在することだけを示している。環境が変われば異なる可能性があり、高い確率で成立する「法則・理論」と考えるのは危険。
posted at 00:54:05
哲学者ポパー8(私の考察2): 法則は観察の積み重ねで生まれるわけではない。観察をしていて殆ど「黒いカラス」だからといって「カラスは黒い」という法則は一切生まれない。これは、過去データに頼る金融工学への警笛であり、ダレブがブラックスワンと呼んだものもこれだろう。
posted at 01:00:49
哲学者ポパー9(私の蛇足): タレブはポパー哲学を学び影響されたと言われる。ポパーが「黒いカラス」を例に出しているのに対し、タレブが「白い白鳥」を例に出しているのは面白い。
posted at 01:02:58
哲学者ポパー10(今後1): 530ページほど読んだ「推測と反駁」のまとめと考察を書いた。まだ150ページほど残っているから変わるかもしれない。私の考察もまた、反駁されるかもしれないのだ。
posted at 01:10:09
哲学者ポパー11(今後2): ポパー哲学を金融に当てはめたタレブの「ブラックスワン」も読まないといけないかもしれない。ただ、内容は99%予想できるし、予想外の内容であれば彼がポパー哲学を理解していないというだけのことだろう。単にその著書をテストするためだけに読むことになる。
posted at 01:11:44
哲学者ポパー12(日常応用1): 二つの主張が対立した場合、反駁しやすいほうをテストすべき。反駁しにくいほうを主張する人に「反駁できないことを証明させる」ことを強要するのはダメ。(例:痴漢の冤罪事件)
posted at 01:22:04
哲学者ポパー13(日常応用2): 大胆な推測を主張する人を歓迎すべき。それを批判し、テストし反駁を試みることにより様々な知見が得られる。たとえ反駁されたとしても。批判しやすい主張はそれだけで価値がある。これは逆に言えば、大胆な主張をする一方で批判を拒むことは絶対に許されない。
posted at 01:28:09
哲学者ポパー14(ソロスの考えとの関連1): ソロスの再帰性はソロスオリジナル。タレブと違い単純応用にとどまっておらず独自発展が見られる。ソロスの誤謬性はポパー哲学の単純適応。ポパーの哲学を知るとソロスの主張はより正しく思える。
posted at 01:56:29
哲学者ポパー15(ソロスの考えとの関連2): ただ、自然科学と社会科学は後者が観察者との相互作用の為根本的に異なり、ポパーの境界設定問題の主張は間違っているという主張は誤り。これはソロスがポパー哲学を(もっといえば自然科学を)深くは理解していないからであろう。
posted at 01:56:54
ここから「開かれた社会」が出てくるのだと思います。残りの150ページで。 RT@kkirysk ここ素晴らしいですね。その通りだと思います。 RT 哲学者ポパー13(日常応用2): // 大胆な主張をする一方で批判を拒むことは絶対に許されない。
posted at 11:10:02
ポパーの考えた政府の良し悪しの境界線は、イデオロギーでなく、批判可能性の高低です。批判可能性が高い方が良い政府「開かれた社会」。社会主義でも自由に批判できる政府であれば良い政府だし、民主主義でも批判を封じ込める政府であれば悪い政府だということでしょう。 RT @kkirysk
posted at 11:19:41
その通りだと思います。批判を歓迎する態度が最も重要だと彼は述べていると思われます。 RT @kkirysk 批判される側が「批判に対して開かれている」ことが大事という意味もあるんですかね? RT ポパーの考えた政府の良し悪し //
posted at 11:37:08

2010年07月19日(月) 5 tweets

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哲学者ポパー16: 物理の話が終わり、弁証法批判が始まる。ヘーゲルマルクスを痛烈に批判。理系の私にはちょっと歴史的背景事情が分からずあまり理解が進んでいない。文系の人にとっては常識的な話で、分かりやすい説明がされているのかもしれないが・・・。
posted at 21:42:04
哲学者ポパー17: ただ、教訓にすべきことはなんとなく分かった。批判される側が自分で決めた方法・様式・手続きでしか批判を受け入れないのは、批判を受け入れていないのと同じということだ。方法等を限定することは、一見、批判を受け付けているように見せかけ独断的にことを進める巧妙な技術だ。
posted at 21:49:06
哲学者ポパー18: ポパーに言わせれば民主主義と共産主義のどちらが残るかはそのその各主義が主張する内容以前に、マルクスヘーゲル弁証法を巧妙に使って批判の様式を限定して批判をかわすという巧妙の手法を用いている時点で、共産主義に未来はないと考えたのだろう。おそらく。
posted at 22:10:25
哲学者ポパー19: ソロスがジョージ・ブッシュ政権を「開かれていない社会」であると批判したように、批判に対して政府が開かれているか閉じられているかは、イデオロギーとは関係ない。民主主義であっても巧妙な技術を用いて批判を封じ込め、独善的にことを進められる危険性があるのだ。と思う。
posted at 22:22:03
哲学者ポパー20: この巧妙な議論の封じ込めは、資本市場での、市場効率仮説支持者たちにも使われているような気がする。そして市場原理主義が助長されたのだろう。物理系出身の私が、ファイナンス系の学会での議論の仕方に対して感じている違和感は、こういうところからきているのかもしれない。
posted at 22:36:12

2010年07月22日(木) 1 tweets

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哲学者ポパー21: 政治哲学の考察が始まる。考察しきれていない感があるが、結論的にはマイケル・サンデルに似てる。つまり、議論の積み重ねが重要、それは文化を超えてすべき、世論は議論の結果ではない、伝統を脇においた<人間>が道徳を議論することはできない。道徳は存在する、など。
posted at 22:33:39

2010年07月25日(日) 2 tweets

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哲学者ポパー22: 名言「私は自分が正しいと思うが間違っているかもしれない。そして君が正しいかもしれない。ともかくそれを討論し合おう。なぜなら、それによってお互いが自分が正しいと言い張っているよりも、真の理解によりいっそう近づける見込みがあるからだ。」
posted at 00:16:33
哲学者ポパー23: お互い自分の意見を相手に納得させようとしているだけでは、それは議論ではない。両者に、自分は納得させられるかもしれない、お互いのどちらの意見とも異なる第3の意見に納得するかもしれない、という心構えがないと議論にならない。
posted at 00:20:39

人間尊重の心理学 読書メモ4

カール・R. ロジャーズ  '人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る' 
の読書メモその4です。

第8章はエレン・ウエスト(Ellen West)という実在人物の事例でしたが、すばらしい内容でした。みんなに全文紹介したいくらいです。難解な概念をひも解く実例としてこんなに分かりやすいものがあるとは驚きでした。何の予備知識がなくても読めるのに、「孤独」という難解な概念を大変よく理解できます。

(p.142)
孤独に対する見方は様々ですが、私はひとりぼっちだという感覚の二要素に焦点を当てたいと思います。(中略)第一は自己、即ち体験しつつある有機体からの疎隔です。この基本的亀裂の中で、体験しつつある有機体は経験の中にある意味を感じ取っていますが、意識的自己は他の意味に執着しています。なぜならそれこそが人から愛され受け入れられるあり方だったからです。こうして、私たちは潜在的に宿命的分裂を所有しているのです。ひとつは意識の中で知覚されることによって習慣となっている行動である、またひとつは自己の内において自由にコミュニケーションできないために否定され無視されたまま、肉体という全存在によって感じ取られる意味です。

(p.148)
「私は知らない人物である自分と向き合っている。私は自分が恐ろしい。」(中略)「ある点で私は正気でない。本能にさからう戦いの中で滅びようとしているのだもの」(中略)「私は自分というものを全く受動的に、二つの敵対する力がお互いに闘う舞台のように感じます。」(中略)「私は孤立している。ガラスのボールの中で、ガラスの壁を通して人々を見ている。叫ぶけれど、誰にも聞こえない。」

(p.149)
乳幼児期、私たちは経験の中で生き、それを信頼しています。赤ん坊の空腹時に食物を得ようと努力すべきか否かを疑ったり迷ったりはしません。意識とかかわりなく自己を信頼して生きています。けれどもある年齢になると、親か誰かが「そんな風に思うのは、いやだよ」と効果的に告げます。そこで、感じていないことを感じるべきだと思い始めます。そして、こう感じるべきだという形で自己を築きます。自己が実際体験しつつある姿を直視するのは時たましかありません。(中略)彼女は自分であることをあきらめたのでした。(中略)彼女は自分がどう感じ、いかなる考えを持っているかがわからなくなっていました。これは最も孤独な状態です。自律的生命体からの完全な分離と言えます。

人間尊重の心理学 読書メモ3

カール・R. ロジャーズ  '人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る' 
の読書メモその3です。

(p.104)
 人間中心アプローチが人間並びにあらゆる生命体に基本的信頼を置くことは実践、理論、研究において明確です。それを証明する多くの理論があります。あらゆる生命体は、各水準において内在する可能性を建設的に開花させようとする基本的動向を所有していると言うことができます。人間においても、より複雑で、より完全な発達に向かう自然の傾向が存在します。これを表現する用語として一番良く使用されるものは「実現傾向」であり、これはあらゆる生命体に存在します。
(中略)
 少年時代に食用とするジャガイモを入れていた地下室の貯蔵箱を思い出します。それは小さい窓から二メートルも地下に置かれていました。条件は全くよくないのにジャガイモは芽を出そうとするのです。春になって植えると出くる緑の健康な芽とは似ていない青白い芽を出すのです。この悲しいきゃしゃな芽は窓から漏れてくる薄日にとどこうと、60センチも90センチも伸びるのです。この芽は奇妙な形ですし無駄ですが、私が述べてきた生命体の基本的志向性の必死の表現と見ることができます。
(中略)
(恐ろしくゆがんでしまった人生を持つ)これらの人々は、異常でゆがみ、人間らしくない人生を展開させてしまったひどい状況にあります。けれども、彼らの中にある基本的志向性は信頼することができます。彼らの行動を理解するてがかりは、彼らは彼らに可能な方法で成長と適応に向かってもがいているという事です。健康な人間には奇妙で無駄と思えるかもしれないけれど、その行為は生命が自己を実現しようとする必死の試みなのです。この前進的傾向が人間中心アプローチの基底なのであります。

(p.108)
 かくして、あらゆる動因の基本が生命体の広範な行動、広範な要求への反応の中に自ら表れているのかも知れません。確かなのは、ある特的の基本的要求は、他の要求が明確になる以前に少しでも満たされていなければならないということです。従って、生命体が自己を実現する傾向が、ある時点では食物や性的満足を求めることであるかもしれません。しかしながら、その要求がどうしようもないほど大きくない限り、自己の尊厳を低めるのではなく高める方向で満たそうとします。また、生命体は環境との相互関係において他者の実現をも求めます。環境を探求したり変化させようとしたりする要求、行動を起こそうとする要求や自己探求の要求、これらはすべて実現傾向の基本的表出であります。
 すなわち、生命体は絶えず探求し、何かを始め、何かに到達しようとしているのです。人間という生命体においてはひとつの中心的活動源があります。この源は生命体全体の有力な機能です。簡単に言うと、生命体の維持だけではなく、その向上を含むような実現、充足へのっ志向であります。